コラム

「身だしなみ」と「自己責任」の罠

私が講師を務めているある医療系の学校は学生のメイクが禁じられています。

それは実習先の病院でマスクをすることが多く、
指導者からもそのように求められるためで、学校創設以来のルールとなっています。

驚くことは、そのルールを教員にも求めていることです。
学校全体で指導に力を入れ、強い思い入れが感じられる素晴らしい学校だと思います。

 

ただ、昨今の身だしなみの風潮、就職活動でのナチュラルメイクの必要性などを鑑みて
この「ブラック校則」とも言われかねないルールを一部撤廃しようという動きになり、
そのルール作りのアドバイザー兼学生への講義を務めることになりました。

 

身だしなみが議論されるときよく持ち出されるのが「自己責任」の考え方です。

「その身だしなみによって相手にどのような印象を持たれても、その結果を自分で背負いなさい」
というものです。
自由な服装、校則を認めている学校などでは管理教育からの脱却、生徒や学生の自主性を育む手法として
注目を集めています。

 

これは一見、適切でありトレンド的な考えのように思います。
根拠のない行き過ぎた校則は時代遅れであり、指導しやすいという指導側の論理を押し付ける姿勢は直ちに改善しなければならないと思います。
ただ「身だしなみ」の本来の意味を考えると、色々考えさせられます。

 

「身だしなみ」は「おしゃれ」とは違い、「他者がその良し悪しを評価する」という枠組みがあります。
自分の価値観が反映される「おしゃれ」なら選ぶのも自分、評価するのも自分となり話は簡単です。しかし、「身だしなみ」は選ぶのが自分だとしても、評価する他者が存在します。
「どう評価されても構わない」「低評価ならばそれも自分で背負うつもりだ」という人だったとしても、
その評価は自分のみならず、自分が所属する学校、組織や会社にも及ぶため、「自己」だけで完結しません。
果たして学校や会社にまで及ぶ評価までも自分で責任が取れるのでしょうか。

 

また、「責任」を問うためには「原因」と「結果」が明確であることが求められます。
例えば「茶髪だったため、面接で落ちてしまった」としたらどうでしょうか。

面接で落ちた理由が髪の色だったと一概に言えるでしょうか。
因果関係がはっきりしていなければ自己責任に落とし込むことは困難ですが
身だしなみにおいて因果関係を特定することはなかなか難しいことがわかります。

 

さらにこの「評価」とは何なのでしょう。
評価とは物の善悪などの考えや価値観のことで、非常に漠然とした感覚の集合体です。
この他人が持つ、つかみどころのない感覚をすべて自己責任でコントロールできるのでしょうか。

 

また、この「評価する他者」とは誰でしょうか。
お客様? 上司? 関係者? 世間?
ある特定の個人でないことは確かです。

「評価する他者」とは、今まさにこの社会を動かしている「ある程度年齢の高い世代の大勢」を指しており、若い世代ではありません。
価値観は時代と共に変化します。
またジェネレーションギャップは近年特に乖離が激しくなっています。
今の若者たちの価値観が大勢を占めるには、自分たちが社会を動かすようになるもう少し先を待たねばなりません。

 

身だしなみにおける「自己責任」とは一見相手を思い遣り、自由や裁量権を与えているように見えますが、実は指導や管理を放棄した無責任な姿勢ではないかと私は考えています。

本当の意味で「自己責任」が取れるようになるには多くの力が必要です。
多くの力を手中にした大人が若者へ迎合しているパフォーマンスに利用しているとしたら、それはとても残念なことです。

 

春になったらたくさんの新入生や新入社員とお会いします。
自らの思考や感情を柔軟に変革させる力、物事を大局的に捉える力、適切な自己表現力など、これからの社会を生き抜く力をつけることが「自己責任」へとつながります。
校則や身だしなみのルールを単にお伝えするのではなく、
その本質を十分に考察できるよう導ける講師でありたいと思っています。

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